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上の桁が二つだまの算盤の不思議?②

今 NHKの朝の連続ドラマ「あさが来た」は評判良いですが、
小道具のそろばんの上の桁が二つ玉なのが、
不思議で気になってなりません。
下の桁が五つ玉なのは、
小学校三年の時の算術(戦前は算数とは言いませんでした)の時間、
初めて習った算盤は、
下は五つ 上は一つでした。
先生が「一銭なり、二銭なり、~~」と言われた声が耳に残っています。
家に有ったのも上は一つ下は五つでした。
下の桁が四つになったのはいつ頃か記憶にありませんが、
それはそれで、昔銀行に一年間勤めた時は、使いました。

今の姓に、嫁に来てなった家は
明治維新までドラマ同様、
堂島の両替商だったそうで、
姑の言い方では 
御一新で、すっかり潰れたとか。
古い帳面や 秤(ハカリ)昔の書類が一杯有った中に古びた算盤がありました。
下は五つで 上は一つ,
裏に かすかに「天保何年~」だかの文字がみえました。
ですから、どうもドラマの上二つ玉が腑に落ちません。

加賀藩や土佐藩あと何とか藩等に、
すっかり踏み倒されて残った証文を持って、
明治政府に行っても一蹴されたとかです。

ドラマの あささんの様な才覚の有る人は居らず、
加賀藩からは羽二重、
土佐藩からは鰹節等が、
蔵屋敷の侍が持って来て 誤魔化されているうちに、
維新になった様です。

ドラマでは明治になっても、
二つ玉算盤を目にしますが、
どう使うのか?不思議です。

両替屋時代、堂島の家には数多くの土蔵が有ったそうですが、
私の想像では、落ちぶれて 
現在西区の立売堀あたりへ住まいを移し 
私の夫の祖父は表千家の茶道の師匠になり、
夫の父は 初めて出来た、ドラマにも出て来る国立の銀行(当時第一銀行と言ったらしいです)に
入ったと聞きました。
暫くして
「今度、住友と言う私立の銀行が初めて出来るので そこへ行って欲しい」
と頼まれ住友銀行の第一号の行員になったそうです。
そこへ、鴻池出入りの茶道具屋だった家の娘が嫁入りしてきたのが、
私の姑です。
どちらも大阪の豪商だった住友に鴻池は 
時代が変わっても立派なものですし、
姑は住友 鴻池と言えば神様のように考えていました。

「成り上がり」と言う言葉がありますが、
姑に言わせると落ちぶれた 私達の家はその反対で
「お姫乞食」と言うそうで、
よく言った言葉だと感心しています。
それでも姑は女衆(おなごし)さんか
丁稚さんがお供でないと外出出来ない暮らしを、
戦前まで続けていて
一生、船場言葉でした。
戦争になり戦後でも、それこそ「お姫乞食」になり、哀れの思いです。








# by o-kikuyo | 2015-11-27 12:20

戦後何年経っても物資は不足でした

二人の子供が幼稚園から小学校に上がっても、
少しずつ良くはなって行きかけてはいましたものの、
まだまだ食糧始め物資の不足は続いていました。
米穀手帳でお米の配給を受けるにも
木綿の布を袋に縫って持っていきました。
修学旅行で伊勢方面へ行く子供には
1合か二合入る袋を縫って
貴重なお米を入れて持たせました。
学校給食はありましたが、
コッペパンに脱脂牛乳に貧しいおかず でしたが、
クジラ肉はよく出ていた様でした。
PTAで試食会がありましたが、
その時はそんな物だと思いました。

子供の通っていた小学校の近くに
聖家族の家と言う
孤児を育てるキリスト教はカトリックの施設があり、
其処からも何人かずつ子供達の組に入っていましたが、
現在の様に露骨ないじめ等は無く、
機嫌よくしていたと思います。
何年か前、孤児だった女の子から私の家へ電話が有り、
結婚して子供も居り、
幸せにしているらしい声で、
私の息子が昔、優しく親切にしてくれた、と涙声でした。
当時息子は二歳下の妹と喧嘩ばかりしてて、
今でも私に偉そうに言ってますが、
そんな事があったとは知りませんでした。


# by o-kikuyo | 2015-11-23 10:02

まさに 老々介護!

大正生まれ人間の 月一回のクラス会とは!
と皆に驚かれ、
少しは得意な気持ちも有りましたが、
10月の集まり日、
世話人の彼女が 
地下鉄の駅員さんの押す車椅子に乗ってる所、
大阪駅から梅田大丸を通って
ホテル グランビアへ行こうとする道で、出会いました。
あんなに足腰達者、内科の医者先生が驚かれる程 内臓丈夫な人が、
とびっくりしながら、
私の杖を貸し、
手や肩をささえて 
ホテル内のレストランに たどり着きました。
地下鉄 千里中央の階段で転んだそうでした。
腰掛けてじっとしてると痛みも無いのに
歩き難いと言うので帰り大丸の介護用品売り場で杖を買われて、
千里中央のバス乗り場まで、送って行きましたが、
一緒にバスに乗って上げなかったのを 後悔してました。
二三日して 息子さんからの電話で、
骨折して入院してると言われました。
あれ程元気な方が、と思い 
連れて歩く、とはまさに、
老々介護だと 
足腰めちゃ悪い自分が支えて歩きました。
今日六日手術されていると思います。
年齢は やはり恐ろしく、
昔 姑が「達者自慢しなはんなや!」と良く言っていたのを思い出します。
先日私の誕生日だとて、
息子と嫁が静岡から電話をして来ました時、
「あんたらも、年やから 気い付けなさいや」と言いました。



# by o-kikuyo | 2015-11-06 14:25

頭の良い隣席の友人

デイサービスに私は水曜と土曜に、送り迎えして貰ってますが、
隣の席の方は二歳程年下で 実に聡明です。
一番可愛がってられる男の孫さんの、お嫁さんが 
来年赤ちゃんを産まれられるそうで、初ひ孫です。
この方も私同様、娘さんを亡くされてますが、
生まれかわりに赤ちゃんが、この世に出てこられる!
と考えてられます。
そう言えば、私も、九か月になった初ひ孫を思ってばかりいますのは
四年前に、亡くなった娘の生まれ変わりの様な気がします。
私ばかり長生きをしてますが40年ほど前に亡くなった主人は
6人もいる孫を一人も見ずに、あの世へ行きました。
娘も孫を見ないで死ぬとは情ないです。

デイでの隣の席の人は、
職員の出されるクイズには いち早く答えられるし、
毎月のカレンダーの塗り絵は、手の不自由な人や、
目の薄い人達の分まで塗って上げてられます。
私は金曜日には行きませんが、カルチャーで書道があり、
それも熱心に励まれてます。
ボール紙と綺麗な和紙で文字と季節に合わせて、
上手に包装されているのを 施設内に展示してあります。
絵手紙は先生のご都合で無くなりましたが、七宝焼きと粘土細工にも励んでられます。


# by o-kikuyo | 2015-10-28 10:45

戦後のお産事情

終戦23日して産まれた赤ん坊が、先日九月七日に70歳になりました。
おんぶして畑仕事から家事全部、着せる物がないので古い衣類で作らねば仕様がありません。
幼稚園から小学生になっても下着も皆作ってました。今では思われませんが、ゴムバンドやゴムひもも売っていません。
何もかも紐で事を運んでいました。
姑の下着のフランネルで、オーバーコートを縫いましたのは子供が、少し大きくなってた様に思います。
終戦から二年して、女の子が産まれましたが、電気事情がまだまだ悪く 停電してばかりの中、大きな懐中電灯に照らされながらの お産でした。
病院ではなく 家へ産婆さんに来て貰ってです。
どちらの子も自分の お乳を飲ませるしか無く、私が 食べないとと考えても、畑のお芋にかぼちゃでした。たった一度だけ粉ミルクの配給があり遠い村役場へ何時間もかけて往復して貰いに行きましたが、何と私が飲んだのか 料理に使ったのか、人工栄養に慣れない子供には飲ませ無かったと思います。
今考えますと、あのたった一度の粉ミルクは軍隊か大きな団体が隠していた物資だったのを放出した様な気がします。



# by o-kikuyo | 2015-09-25 11:35
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1927年の-モンパリ-を母の膝で見て以来86年宝塚好きです


by o-kikuyo
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