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阪急 園田駅の思い出

駅の思い出を よく申しますが、
阪急神戸線の普通しか止まらない園田駅
も今は降りたことは ありませんが
高架線の立派な駅になっています。

69年も前の古い昔高架ではなく
地上を走る阪急の田舎の駅でした。
駅舎の傍に一本の夾竹桃の木があり 
真夏には赤い花が一杯咲いていました。
園田にも空襲があったとき、
駅は無事で赤く花は咲いてましたが
「又空襲が来たら、この花も しまいやな」
との声がしました。
それから何度も警戒警報に空襲警報におびえましたが、
西宮 神戸 大阪の大空襲の火の手を何度も見ました。
姑は妊婦が火を見たらアザだらけの子が生まれる!
と騒いでいました。
その上 
配給も少なく食べ物の苦労がつずく八月の地獄の日々15日終戦になりました。
物資は益々不足でも、灯火管制はせずとも良く 
上から火が降ってこない生活は嬉しいでした。
灯火管制だと言って
電燈を黒い布で覆い、
窓に黒い分厚いカーテンを掛ける事のない上、
モンペに防空頭巾を先ず脱ぎ捨てました。
しかし食料難はつずきながらも 
畑で作った小麦を 石臼で挽いた粉で蒸しパンの様なのを作って食べてました。
九月に入って大阪の実家へ行き、
そこで産婆さんに来て貰って長男を産みました。
あれだけ火の手の上がった空襲を見たのに、
あざも無い赤ん坊でした。
ロクな物も食べてないのに 
有り難いことに お乳はよく出ました。
粉ミルクなど 闇でも手に入らない時代でした。
実家の母も姑も産婆さんには 
赤飯と尾かしら付の鯛等で ご馳走するのが出来ないと言って嘆いていました。
今年は終戦69年と言っていますが、
9月7日が来ましたら、
長男は69歳になります。
自分の年を棚に上げて 恐ろしくなります。
ガスもなく 銀行も無かった園田村でしたが 
高架の電車から見た園田の街の立派さに驚いています。
















by o-kikuyo | 2014-08-01 12:11
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1927年の-モンパリ-を母の膝で見て以来86年宝塚好きです


by o-kikuyo
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